民藝と工業のあいだで
「民藝」や「手仕事」と呼ばれるものづくりを参照しながら、僕らが手がける工業製品とそれらを別つ線はどこにあるのかを、ずっと考え続けている。
たとえば、柳宗悦は「民藝」の特性を以下のように定義した。
実用性:鑑賞するためにつくられたものではなく、なんらかの実用性を供えたもの。 無銘性:特別な作家ではなく、無名の職人によってつくられたもの。 複数性:民衆の要求に応えるために、数多くつくられたもの。 廉価性:誰もが買い求められる程に値段が安いもの。 労働性:くり返しの激しい労働によって得られる熟練した技術をともなうもの。 地方性:それぞれの地域の暮らしに根ざした独自の色や形など、地方色が豊かなもの。 分業性:数多くつくるため、複数の人間による共同作業を要するもの。 伝統性:伝統という先人たちの技や知識の積み重ねによって守られているもの。 他力性:個人の力というより、風土や自然の恵み、そして伝統の力など、目に見えない大きな力によって支えられているもの。 民藝とは何か | 日本民藝協会 www.nihon-mingeikyoukai.jp
実はこの9つの特性に、僕らが手がける工業製品もほぼ当てはまっている。
むしろこの定義に従えば、作家性の強い手仕事以上に、工業製品は極めて民藝的である、と言えなくもない。
確かに、工場で作られる製品であっても、人の手や目が介在しないケースは極めて少ない。そういう工程には代替し得ない職人技が潜んでいて、その手技には僕たちが手仕事に求めるものと何ら変わりないうつくしさや物語を宿している。
柳の定義は「工芸を美術的権威から民衆の手に取り戻すため」という前提ではあるものの、明らかに量産を目指している。では民藝と工業製品との違いは「機械を使うか否か」といった構図にも見えてくるが、例えば旋盤と轆轤の違いさえ曖昧であり、機械と道具の線引きも難しい。自動機でさえプログラムひとつ、回路ひとつに、職人の刃物へのこだわりと同等の創意工夫や美意識が宿っていたりする。
効率や合理性を追求することは、決して悪いことではないと僕は思う。良いものを均質に、安全に、より多くのひとの手に届けられるように、という姿勢はやはり作り手の良心だからだ。そしてそれは手仕事から工業製品に至るまで通底し得る願いでもある。
ところが、量産品は作れば作るほど価値が下落する。
得た利益を設備投資にまわし、安定的な供給努力をするほどに、製品は無価値へと近づいていく。それを一般に「コストダウン」と呼び、僕らが知恵を絞り額に汗して生み出した「価値」は「費用」に計上される。
一方、民藝や手仕事では「価値」を「費用」と読み替えたりはしない。
価値は限りなく価値であり、その価値は使い手の手を離れた後も価値として流通される。そこには関係性であったり、人の営みや生業であることへの理解が伴っている。
つまり「価値」と呼ぶか「費用」と呼ぶかは、営みや生業としての手触りによって決まるのかもしれない。先の9つの特性は、利己・利他のいずれに重心を置いているかでその距離感や手触りを大きく左右するものである。
誰にとっての実用性か。 何のための無銘性か。 誰のための複数性か。 犠牲のない廉価性か。 労働するのは誰なのか。 地方の何に支えられているか。 なぜ分業なのか。 守られるべくして守られた伝統か。 他力を感じているか。
誰と、何を、誰のため、何のために作るのか。
一見あたりまえにして、忘れがちな問いかもしれない。おそらく作り手・使い手のどちらか一方でなく、またそのどちらでもないものまで含めて考え続けるべきだろう。
柳が工芸を民衆の手に取り戻そうとしたように、工業に生業としての手触りを取り戻す時なのかもしれない。違いがわからないほどの差であるならば、きっとその境界も滲ませていけるはずだ。
僕らは、価値を価値として受け取ってくれる誰かのためにものをつくる未来を目指したい。やるべきことを変えず、けれど変えるべきは変えながら、手触りを手放し続けた近代の落とし前をつけるところからまずは始めてみようと思う。